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継ぐ気はなく役者の道へ
谷川クリーニングは、祐一さんの父・末男さんが1969年、茨城県神栖町(現神栖市)で創業し、94年に法人化しました。今は52人の従業員を抱え、15店舗を展開しています。年間約75万点の品物を預かり、一般用だけでなく企業や医療関係のユニホームや工業用のクリーニングも扱います。
クリーニング業は技術の差異の判断が一見して難しいからこそ、従業員主体のサービスで差別化。今では利用客がお土産を持ってきたり、お店の飾りつけを作ってくれたりしてくれるといいます。2020年には、民間有識者が全国の企業から選ぶ「ホワイト企業大賞」に輝きました。
谷川クリーニングは茨城、千葉両県に展開しています(同社提供)
長男である祐一さんは、元々後を継ぐ気はなかったといいます。「自営業は親が売り上げの上下で悩む姿を目にしますが、うちも会社で何かあるとすぐに家庭不和が起きました」
父には「お前が後を継ぐんだ」と言われていましたが、職人の父を尊敬しつつ「この商売だけはやりたくない」と思っていました。大学進学で東京に出るとスポーツジム通いやお笑いの研究、飲食店アルバイトなど様々な経験を積みます。そして大学3年のある日、父から一本の電話が入りました。
「やりたいことがあるんだったら30歳まで帰ってこなくていい」
祐一さんはそのとき初めて「自分にはやりたいことがない」と気づいたといいます。
大学を出た後、1年間のフリーター生活を経て派遣会社に登録。ゲーム会社に配属され、正社員として採用されます。一方、働きながら役者の道も模索。レッスンを重ねて事務所所属にこぎ着けます。
「役者で食べているかも」と思った28歳のある日、再び父からの電話が鳴り、「そろそろ帰ってこい」と告げられました。
父の弱音に心を動かされ
祐一さんは東京で役者として生きる意志を伝えると、父から激高され、大げんかの末、東京に戻ります。それでも、しばらくして実家の妹から「母が倒れた」と電話が入りました。
再び父と話すと「もうどうしたらいいか分からないんだ」とこぼされました。厳格な父が初めて見せた弱気な姿。祐一さんは「そんなに経営が厳しいなら店を閉めてしまえばいい」と言いました。
父の代からモチーフにしているアライグマ
しかし、谷川クリーニングには当時40〜50人の従業員がいました。「1人の従業員に4人の家族がいたら、200人くらいがここで食べている。この会社はつぶせない」という父の言葉に心が動きます。
「3年で立て直しても31歳。役者としてギリギリ間に合うかも」。祐一さんはUターンを決めました。
腕は良くても規律に欠ける組織
2004年、専務として家業に入った祐一さんは想像以上の環境に直面します。
「おはようございます!」。工場であいさつをすれば、職人から「うるせえ」と怒号が飛ぶ。ミスがあれば若手は殴られ、パート従業員は涙する。それでも職人の腕はよく、品質は高い。
祐一さんが輪店に向かうと、一人で切り盛りするはずの店の奥から話し声が聞こえ、店員が近所の人とお茶をしていました。生活用品が一式置かれ、会社と無関係だった従業員の内縁の夫がカウンターに立つ店もありました。
工場で汚れを落とした衣類(同社提供)
クリーニングの質が高くても、私物化された店舗では何も伝わりません。祐一さんは改革に取りかかります。「まずはマニュアルを整備して接客のオペレーションを作り、読み合わせや指導を徹底しました。店に足を運んでダメ出しをして、どうやったら直せるかを繰り返し説きました」
祐一さんは社員に「愚痴や不平不満、悪口を言うのはやめてください。言いたいことがあれば、僕に言ってください」と告げました。
すると翌日、3人が退職。その後の2カ月で18人いた工場の従業員のうち8割の14人が辞めてしまったのです。同じころに近隣のクリーニング店が倒産。あぶれた客が押しかけ、完全にキャパオーバーの状態でした。
工場のボトルネックを解消
祐一さんと麻美さんは工場のフォローに入ります。残ったのは工場長を含む4人の従業員。夫婦はそれまでアイロンをまともに握ったこともありませんでしたが、新入社員も含めた8人で作業を回しました。
そのころ、祐一さんは書店で「ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か」(エリヤフ・ゴールドラット著)という本に出あいます。機械メーカーの工場長を主人公に据え、工場の業務プロセス改善を主題にした小説です。
購入した翌日、祐一さんは工場内の機器のマニュアルをすべて取り寄せて作業を見直し、満タンの衣類を洗濯機に詰めていたのを半分に減らしました。満タンでは衣類の汚れが落ちにくく乾燥しきれないためやり直していた作業が、量を半分にすることでスムーズになり、工程のボトルネックがなくなったのです。
ロットを小さくすることで、10人以上で残業が発生していた仕事が、8人でも定時で終わりました。危機から3カ月後には、7人で工場を回せるまでになっていました。
クリーニングで重要なアイロンがけの工程(同社提供)
父へのあいさつで生まれた変化
13年、祐一さんは妻の麻美さんと財務の勉強を始め、出会った財務コンサルタントから決算書の仕分け直しを勧められました。
改めて勘定科目を精査し、麻美さんが1年かけて決算書を作成し直しました。初めて財務分析すると、労働生産性(従業員1人あたりの付加価値額)をはじめ、いくつかの項目で異常値が出てきたのです。
心理学も教えるそのコンサルタントから「あなたは財務だけじゃなく、人間のことも経営のことも知らない」と言われ、夫婦は哲学や臨床心理学の分析システムである交流分析(TA)も学び始めました。
経営を立て直した谷川祐一さん・麻美さん夫妻(同社提供)
コンサルタントからは父親との関係も見直すように言われました。それまで緊張が走っていた家で、祐一さんは朝のあいさつを始めます。しかし、2週間ほど続けても何も変わらず、再びアドバイスを受け、やり方を変えました。
「小学校で教わった『相手の目を見て笑顔で元気よく』のあいさつ。大人になった自分が父親にやるなんて、正直やけくそですよね(笑)」
続けること2週間。初めて父から「おはよう」と返事がありました。
祐一さんが工場でも同じように行動すると、従業員同士もあいさつするように。マニュアルで決めてもやらないのに、やり方を見直すだけで変わる。祐一さんは「管理の仕方を根本的に間違えていた。人間関係がボロボロのまま働いていても意味がない。自分の中で柱みたいなものが作られていきました」
祐一さんは休憩所にアフタヌーンティーセットやコーヒーメーカーを用意し、壁紙やじゅうたんも変え、かつて怒号が飛び交っていた工場内には明るい音楽を流しました。
こうした施策の結果、労働生産性は正常値に戻り、過去最高益を計上。改革1年目は利益が年間8万円しか出せませんでしたが、利益率を売り上げの15%にまで伸ばしました。
「3K」のイメージを変えたい
求人の仕方も大きく変わりました。これまで「やる気のある人募集」としていたものを、「音楽の流れる工場で楽しく体を動かす仕事を一緒にやってみませんか」、「素敵な休憩室があります」などと掲げました。
採用面接の場では「お客さんだけでなく、周りで働く人みんなに喜んでもらえる働き方をしてください」と伝えることもあるといいます。現在、離職率は5%程度に抑えています。
従業員が楽しんで働ける環境づくりに着手しました(同社提供)
祐一さんは社員と一人ひとり丁寧に話し、立て直しの協力を求めました。工場長とひざ詰めで話をすると、「若いころ、3Kの業種がどうしたら誇りの持てる仕事になるかを考えていた」と話してくれました。
「クリーニング業が3Kではなく、楽しめるものというのを見せなければいけないと思ったんです」
サッカーをイメージした工場改革
工場はサッカーのようなチームスポーツだと祐一さんは話します。「クリーニング店のゴールはお客さんに品物を届けること。制限時間8時間に何点出荷し、何点ミスを防げるか。そのためには、他のポジションの人のところに手伝いに行っても相談しても変えてもいい」
サッカーのフォーメーションボードを模した動線図(同社提供)
祐一さん夫婦は工場内の仕事をこれまでの半分の人数で回すために、サッカーのフォーメーションボードを模した動線を作成します。
通常、リーダーと現場スタッフとでは情報の質や数が違うため、行動や意見にも差が出てしまいます。しかし、ボードを使ってメンバー全員の動きや入荷・出荷点数、出勤人数などを見える化して情報共有し、全員の方向性をそろえました。
加えて、業務改善に必要な道具や経費は工場の自由裁量に任せ、始業や終業の時間の決定やシフト管理も現場に委ねました。
「強いサッカーチームが相手のフォーメーションや作戦に合わせて対応するように、自分たちで考えて、決めて、動く。それは会社でも同じだったんです」
ある日、祐一さんはこの道50年以上のベテラン職人から「今が一番楽しい。みんなで考えて協力しながら仕事をするって面白いよな」と言われたといいます。今では、祐一さんが工場に足を運ぶことはほぼなくなりました。
店舗にも持たせた裁量権
シフト管理をしないのは、店舗でも変わりません。祐一さんの父の代から、店舗にいる人同士で相談してシフトを決めていましたが、ここに祐一さん流の工夫を加えました。「1店舗2人でこれをやると、どうしても上下関係が発生します。だから、3店舗6人でシフトを決める形にして上下関係が出ないようにしたんです」
店舗にも裁量権を持たせ、例えば店内の飾り付けをしたいときは、現場の判断で経費を出せるようにしました。当初、整備していた接客マニュアルや応酬話法といった手法に違和感を覚えたのです。
そこから「あなた自身がお客様に喜びや驚き、感動を与えること。その結果、お客様からあなた自身が好かれ、選ばれることがあなたのやるべき仕事です」というように、「仕事の意味や意義」を伝えるようにしたといいます。
祐一さんは「『自分の行動で人に喜ばれた結果、相手と良い関係がつくられる』という考え方がベースとしてそろっていることで、工場も店舗もルールがあまり必要無くなったというのが真相です」と笑います。
地域との関係をより深く
祐一さんによると、クリーニング業界は拡大戦略を取る会社が多いそうですが、谷川クリーニングは違います。「この地域は20年後には人口が3割減ると予想されています。拡大して広げるより、地域の人との関係を高め、質を良くしようと思っています」
祐一さんは地域に寄り添った経営を続けます
さらに、祐一さんは続けます。
「自分の経験を伝えようと、昨年(22年)、別の法人も立ち上げました。現在、交流分析、子どもも学べるマネジメントゲームなども行っています。経営者も含めて、地元の人がつながる場所をつくっていきます」
「自律分散型」の組織へと変化を遂げた谷川クリーニングは、これからも地域の人が集う場所であり続けることを目指しています。
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