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Tuesday, April 26, 2022

【大阪特派員】山上直子 旧小西家住宅に残る商人魂 - iza(イザ!)

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大阪商工会議所の鳥井信吾新会頭=大阪市中央区(永田直也撮影)

関西経済三団体の一つ、大阪商工会議所の第27代会頭に先月末、サントリーホールディングスの鳥井信吾副会長が就任した。新米記者時代の会頭(第21代)は、その伯父で当時サントリー会長の佐治敬三さん。なんだか感慨深い。

コロナ禍、3年後の大阪・関西万博など課題が多いなかで、今回、鳥井会頭が打ち出したのが「やってみなはれ 中小企業 チャレンジ支援プロジェクト」だった。この「やってみなはれ」は、祖父でサントリー創業者、鳥井信治郎の言葉。創業精神でもある。

言い換えれば、進取の精神といったところだろうか。困難な課題にみずから挑戦しようというスピリット。これこそ、大阪の商人に脈々と受け継がれてきた遺伝子だ。

実は、有名な大阪の経営者3人が同じ系譜につながるのをご存じだろうか。

まず一人はその鳥井信治郎。次に、和歌山から出て自転車店に奉公していた少年で、信治郎に出会い商売の師とした。後の松下幸之助である。そして、その流れの源ともいうべき存在が、信治郎の奉公先だった小西儀助商店の主人、2代目小西儀助である。

いわずもがな、先の2人はそれぞれサントリー、松下電器産業(現パナソニック)の創業者だが、「小西」と聞いてピンとくるだろうか。黄色と赤色のパッケージに入った「ボンド木工用」といえば分かりやすいかもしれない。そのロングセラー商品で知られる接着剤最大手、現在のコニシ(大阪市中央区道修町)だ。

明治3年、初代儀助が薬種商として創業し、後に洋酒や工業用アルコールの販売を手掛けて成長した。2代目は近江出身で、熱心な仕事ぶりと技術を持つことから見込まれて婿養子となった人物。そして、その儀助から洋酒づくりの様子を学んだのが奉公人の信治郎だった。

信治郎は後に文化社会貢献につながる「利益三分主義」の経営哲学で知られるが、どうも近江商人の「三方よし」につながる気がする。さらにいえば、幸之助の「お客様大事の心」にも。信治郎はやがて起業し、有名な「赤玉ポートワイン」の開発へと発展した。このあたり、作家、伊集院静さんが小説『琥珀(こはく)の夢』で生き生きと描いている。

一方、小西儀助商店はコニシとなり、化学品なども扱うほか、合成接着剤「ボンド」を製造する企業として成長したが、かつての大阪の商家の暮らしを伝える貴重な文化財を今に残す。住宅兼店舗だった「旧小西家住宅史料館」だ。国の重要文化財に指定されている。

「天井を見てください。板の色が3枚だけ違うでしょう? 戦時中に焼夷(しょうい)弾が落ち、皆でバケツリレーをして消し止めたそうです」

現在、見学は完全予約制で、取材をお願いすると、大阪総務部の石井隆康さんが公開していない2階の一角の天井を見せてくれた。よくぞ残ったというべきだろう。

住宅は商売を行う店棟と居住棟が分離された商家の代表的な表屋造(おもてやづくり)で、明治36(1903)年に完成。家族のほか従業員、使用人を含めて約50人もの食事をまかなったという台所には大きなへっついとよばれるかまどが残り、かつてのにぎわいをほうふつさせる。

「今はもうありませんが、かつてはここにトロッコのレールがありました」と石井さん。「家にトロッコ?」と驚いたが、物資を家の中やその奥にある蔵まで効率よく運ぶための工夫だったという。大店ならではのアイデアだろう。

興味深かったのは、明治44年の市電開通のさい、道路を拡幅するため約300平方メートルを提供。建物も削って「軒切り」と呼ばれた。

同宅は現在、先の大戦での戦禍も免れ、高度経済成長やバブル崩壊といった経済の荒波も越え、高層ビルの中にどっしりと構える。大阪商人の精神を今に伝えるために〝残った〟のではないか。そんな歴史のめぐりあわせを感じた。

来月から筆者が代わります。6年8カ月の長きにわたりありがとうございました。(やまがみ なおこ)

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